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□エゴの使い手になる
本文
怒りは出て当然
怒りが出るのは、思ってたのと違う、望みと違う、許容範囲を超えてきた、みたいな時だと思います。
そして怒りが不快だから、何とかしたい!となり、原因や改善方法を探して探して探して探す。正当性や同意や慰めを探して探して探して探す。反省や落ち込みで自分の欠点を探して探して探して探す。
なんとか納得するまで、折り合いがつくまで、落としどころが見つかるまで、ずっとエゴ(思考)の活性タイムに付き合わされてしまいます。
その一連の流れをやめていくには、早々にエゴを納得させたいところです。
そこで提案したいのが『自分の望みと違うのが出てきてるのだから、怒りが出て当然』という捉え方です。
なんなら、怒りを出さざるを得ない状況を当てられた感すらあるという姿勢を取ると、ワンパターンだったエゴ活動が勢いをなくします。
そもそも、怒りは反射的に出るので、笑いや涙やくしゃみやおならと同等に扱っていいのだけど、「怒ってる自分が許せない、ほっとけない」のなら怒ることは良くない、みっともないみたいなラベルがくっついてるので
・「怒ってる自分もカッコいい!」
・「今日も自分を大切にしてるねぇ~。」
のような全肯定も効くと思います。
それにしても、この温厚な我々の怒りを出させられるような場面展開こそがおかしいもの(幻想)だし、その幻想チックな現実は、このような取り組みで、どんどんなくなって行くから、さほど気にしなくていいと思いまーす。(怒りを真剣に捉えてしまう方(過去の私)へ届け。)
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エゴの使い手になる
現実的な何かで頭が捕まっている時、思考(エゴ)は激しく動き回りますよね。
頭の中で、あーだったらこーだったら…あーすればこーすれば…あーなったらこーなったら…あーでもないこーでもない…。
これをやってる時って本当に疲れます。嫌な現実なのに、のめり込んでる状態ですね。
ここで気づく必要があるのは、そうやっている時って、過去の記憶や一般常識が、細部に渡って幅を利かせてないかい?ってことです。
「今までは…」とか「常識として…」みたいな前置きが、とても自然に当たり前の顔して機能しているはずです。
そもそもの部分に決めつけがこびりついていることに気がついて、そこを疑うことができたら、途端に可能性がブワ~っと広がるので楽になるんですよね。
あるあるで言えば、「この年齢だから…」の前置きは自分の中にある定義なだけで真実ではないのかも…と疑ってみる。(「この年齢だし…」でホッとする場合は除きますが、個人的には、それは一時的な対処法として、基本スタンスは年齢は関係ないし、なんの影響ももたない、にしておくのをオススメします。)
でもまあ常識や過去データを手離すのが怖いエゴちゃんは、新規なアイデアにはなかなか納得しないもの。
それでもこっちサイドのエゴ(こだわりゼロの思考)を利用して、あっちサイドのエゴ(こだわりまくりの思考)を飼い慣らしていくと、明らかに現実が変わっていって、世間の常識も薄っすら変わり始めるのを感じると思います。(そう!常識って本当に変わりますよね。昭和や平成の常識って今じゃ馬鹿にされたりドン引きされたり…^^)